【読書】リトル教授の心理学講座②

こんにちは。もひーこです。ブライアン・R・リトル著「ハーバードの心理学講座」2章~3章あたりを読んだ感想です。


あなたは自分や他者の性格について、どのように理解していますか?


私たちの性格は、特定の「タイプ」に当てはまる訳ではありません。性格は大きく5つの要素に分けることができ、各要素はグラデーションのように濃淡があり、人は必ずそのどこかに位置します。具体的には、①誠実性②協調性③情緒安定性④開放性⑤外向性 の5つです。この尺度を使用することによって、私たちは自分や他者を新たな視点で解釈することができると、リトル教授はいいます。


リトル教授は、私たちは独自のメガネをもって世界を解釈していると言いますが、このビッグ・ファイブもメガネであることは同じです。パーソナル心理学の研究者が好んで使うメガネ。でも確かに、個々人の偏ったメガネよりは、バランスがよいのかなと思います。


リトル教授の主張でおもしろいところは、個人のパーソナリティは遺伝的、社会的、個人的な動機に従い構築されているというところ。つまり、生まれもった性格、環境や社会に適応するための性格、自分の大切なプロジェクトを達成するための性格、すべてが自然な自分だということです。


なので、ビッグファイブ・モデルで他者や自分を新しくとらえ直すことをすすめるけど、あまり深刻に受けとめるなと言っています。どっちやねーん!


ここからは個人的な考察ですが、私の特徴的なパーソナリティは、「真面目」です。毎日2時間かけて授業の復習をするような、子どもの頃の自分に自分でもどんびきするくらいの真面目ちゃんです。あ、最近も真面目に仕事しすぎて同僚に「どんびきした」って言われました。ちなみにビッグファイブ・モデルでは、誠実性が高い、ということになります。これは、環境の影響で強化されてきたんじゃないかなぁと思います。


たぶん、私が生まれもった特性は「真剣に何かに取り組むのが好き」だということ。何かに集中している時間を必要としています。真剣に何かをしたいというパーソナリティが根底にあって、それが社会的に推奨されていることだけに発揮されているうちに、勤勉に生きる「真面目ちゃん」になっちゃったのでしょうか。


「真面目に生きる」と「真剣に生きる」は全然違いますよね。社会的規範からはみ出さないことが「真面目」で、自分の基準で価値があると認めたものに真摯に取り組むのが「真剣」。私がメンタル不調で休職することになったのは、「真面目に生きる」のはそろそろ限界だよってカミサマが教えてくれてるのかもしれない。


長年掲げてきた「真面目」という看板を下ろして、これからは「真剣」を軸にして生きていきたいと思いました。「真面目」は常時稼働って感じだけど、「真剣」はメリハリで抜くときは抜く感じ。真剣に楽しんでもいいし、真剣におもしろがってもいい。「真面目」よりうんと自由度が高い気がします。


生まれもった性格は、ご先祖様がその性格でもって生き抜いた証。環境に合わせて身につけてきた性格は、今この場所まで導いてくれた相棒。そして自分のプロジェクトのために獲得する新しい性格は、人生の幅を広げる可能性。全部ぜんぶ、大切な自分の一部です。どんな自分も受け入れていきたいものです。